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- 2011.07.09 Saturday
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歌劇「七夕」

今年も七夕が過ぎた。
織姫と彦星、今年は会えただろうか。
晴れ間も覗いてたから会うには会えただろうけれど、
快晴じゃなかったし、せいぜい交互に瞬きあえただけかもしれない。
年に一度しか会えないというのに、かわいそうに。
などと思ったら大間違いである。
星がどれだけ生きるか考えてほしい。
年に一度、というが、人にしてみたら、
毎秒会っているようなものである。
瞬く間もない。
いや待てよ。
良く考えると、二人とも星なら間違いなくその通りだが、
改めて考えると、名前からして、織姫の方は星ではなくて、人なのか。
だとしたら、それは確かに悲劇だろう。
価値感どころか、時間スケールが違い過ぎる。
と、ここまで読まれて、宇宙に詳しい方は反論されるだろう。
仮にもし二人とも星だとしたって、十二分に悲劇であると。
何しろインフレーション宇宙である。
二人の間には、毎年、天文学的な距離が開いていっているのである。
さらに。
仮にもし、何かで二人の距離が急に縮まったとしたら、
後にはブラックホールが残るのみなのだ。
これはもう、ロミジュリの比じゃ無い悲劇である。
これほどに材料が揃っているのに、歌劇「七夕」が無いのは残念過ぎる。
これを読まれた方は、ぜひ制作されることをお薦めする。
そんなことを言ったって、私は目下、作曲家じゃない、
とおっしゃる方も中にはいらっしゃるかと思うが、
少し考えてみて頂きたい。
何といっても、宇宙きっての一大ロマンスである。
興味を持つ観客は、無限とは言わずとも無数に居る筈だ。
演出も低予算でいけるに違いない。
歌手は皆、裏で歌って、舞台は照明だけで済む。
それも点光源を幾つかで、後は真っ暗で良いのだから時勢にも合う。
これはもう、今作らずして、いつ作るのか。
完成した暁には、謝辞に当ブログを加えて下さったら幸いです♪
*****
論文の文章を練ろうと思ったら、
うっかりこんなものを書いてしまいました。
久しぶりの、また震災後初めての日記なのに、
いつもながらの妙な内容で申し訳ありません。
もしもこれを読んで気分を害された方がいらっしゃったら、
本当に、お詫び申し上げます。
また改めて、被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。
七夕、皆さまの願いが叶いますことを祈りつつ。
未来の

ナイトレイ云々はともかく、論文を書く上で、未来の、という視点はなかなか大切なのではないかと、改めて気付いた。ともすれば、論文が世に出ること自体の達成感、即時的なインパクト、いかにグラントあるいはポジションの獲得につなげるか、などなど、といった現在的な事柄を動機に据えてしまいがちになるが、何より大切なのは、大切であるべきなのは、百年経った時、それが人々に読まれ続けているかということに違いない。堅く言えば、学問の流れを作るのに真に貢献できる仕事を、ということになるだろう。が、そう言ってしまうと、そんなことは言わずもがなという気がしてくる。当然だと思うことと、実感するというのは、同じではない。
In bocca al lupo!

そういうわけで、ブラジルのAnaからのメールは妄想であったが、スクールで3週間も朝から晩まで顔を合わせていれば、私のように社交的とは言えない者でも友人と呼べる人の少しは出来る、というより、友人になってくれようとする親切な人も居てくれる。今回のアメリカも後半は、元はといえばその繋がりから、話す機会を頂いたものであるし、本当にありがたいことなのであるが、仕事以外でも、時たま連絡を交わすことの出来る相手が世界中に−というのは誇張だが−幾人かできたのも嬉しいことである。その一人、ミラノ在住の人物とは、日本語とイタリア語の表現句を互いに教えあう、という少し典型的なことを始めてみた。といっても未だ2回のみだしいつまで続くか未知数であるが、ともかく、その最初に教えてもらったのが、表題の"In bocca al lupo!"である。直訳すると"In the wolf's mouth"となって、その語源は正直分からないけれど、ともかく"good luck"の意味でとてもよく使われている、とのことであった。日本語にも「幸運を!」という表現が無いわけではないけれど、少々堅い。英語だと、実際good luckがよく使われていそうなのだが、一度ケンブリッジで在英10年の韓国人の院生が博士論文を書くというので、good luckと言ってみたところ、"Ya, actually I need good luck..."と切り替えされて戸惑ってしまったこともある(どうやら冗談のつもりらしかったので多分良かったのだが)。"In bocca al lupo!"も何しろ「さあオオカミの口に飛び込もう!」だから語源がどうのと言いはじめたら色々かもしれないけれど、結局のところ字面ではなくて、込められた気持ちが大切なのであろうと思う。というわけで、遅まきながら、皆さまにも、In bocca al lupo!
*****
論文を書いている。論文を書くというのは研究者にとって日常的な業務ともいえるのであるが、改めて思い起こすと、これは全くもって、贅沢なことである。考えてみてほしい。たとえ今、この地球上に、自分のことを気にかけてくれる人が誰一人居なかったとしても、自分の死後、100年経とうが200年経とうが、世界中の図書館に自分の名を尋ねに来てくれる人がいるとしたら、どうであろう。こんなことを書くと、bassさん、実は根暗だったのですね、と言われてしまうかもしれない。別に否定はしない。人間、明るければ良いというものでもない。けれど暗いばかりではない。思い描いてみてほしい。未来のある日、風薫るケンブリッジの川べりで、キーラ・ナイトレイの生き写しのような女学生があなたの論文のコピーを手にして、「これでも英語かしら?」とか呟きつつも熱心に読んでくれ、知らぬ間に添削までしてくれてしまう様を。なんて書くと、bassさん、暗い上に妄想家だったのですね、と言われてしまいそうである。暗かろうが妄想家だろうが、科学論文を書くということは、少なくてもその位に、本当はそれ以上に贅沢なことであるのは、紛れも無い事実である。むろん、読んでくれる人が居るような、そしてその人たちの時間を奪っても申し訳なく無いような論文を書いていかねばならない。これは自戒であるが。
それにしても、上のキーラ・ナイトレイの登場の仕方は唐突過ぎだろう、と思われた方がいらっしゃるかもしれない。実は、件のANAの機内で遭遇したのである。全く幸運であった。それも数十人も一斉に、である。つまり、「つぐない」という映画を観たわけであるが、悪いとは言わないけれど、ちょっと暗すぎるのでは無いだろうか、というのが観た時の感想だった。しかし、現実離れした救いが現れるよりは、あるいは良いのかもしれない。それはそうと、根暗な話かと思えば女優の話に転じて、ふざけていると思われるかもしれないが、ふざけてはいない。映画でいえば、「Life is Beautiful」(ビューティフルライフではない)の主人公の精神を見習いたいと思っているのみである。なんて、単に論文が大変というだけで、あまり大げさなことを言ってはいけないが。

空を越えて
- 2008.03.22 Saturday
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- 15:47
- comments(5)
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- by bass

朝、パソコンを起こしてメーラーを立ち上げると、去年、サマースクールで知り合った、ブラジルの女の子からメールが届いていた。何だろう?と思いつつ開いてみると、いきなり「アメリカ行きの準備は整った? もう5日後でしょう?」とある。何と!言われてみれば確かにそうだ。このままではうっかり行きそびれることは必至だったから有り難いといえば有り難いが、一体どうして、半年以上何の音沙汰も無かった彼女が、組織の上層部以外誰にも漏らしていない筈の私のアメリカ行きのスケジュールを、地球の反対側から把握しているのだ?もしやこれが、最近話題の衛星ストーカーというやつか!?といぶかしがりつつも、ふと我に帰ると何のことはない、航空会社からの出発日確認メールであった。
というわけで、いつにも増して痛い書き出しとなってしまって恐縮である。昨年冬にアメリカから帰国して以来、少し劇的に忙しかった。忙しくしていたと言うべきかもしれないが、いずれにしても、ある意味自ら好んで仕事をしていたのみだから、自業自得といえばそれまでだ。実のところ、出勤しなくて良い分、土日の方が仕事がはかどるのである。が、朝から晩までカフェを梯子している様子を見られでもしたら、いよいよカフェイン中毒がそこまで進んだかと哀れまれるのが落ちであるのが、この業界、というかこの分野の辛いところである。仕事といえば、時に新聞沙汰になるほど不安定性に満ち溢れたポスドクという稼業に身を置く以上、それなりに活動もしなくてはならないのだが、それについては多くは語らない。ともかくも、この国に、とか、この星に、とか贅沢なことは言わないから、せめてこの銀河に良きポストが見つかればと願うのみである。それもあまり遠いと、面接を受けに行く途中で定年、とかナンセンスなことになりかねないから、できたらもう少し近場だと嬉しい。
さて、話を元に戻すと、サマースクールにAnaという名のブラジル出身の大学院生が参加していたのは本当である。ただ残念ながら、ランチでたまたま近くに座った時に少し会話を交わした位で、私の出張日程どころか、私の存在を覚えてくれているかどうかすら定かではない。が、親から貰った愛機だといってキャノンのデジカメを大切そうにいじりながら、カメラも車も、科学技術で日本に勝る国は無いと思う、と言ってくれたのは、日本人として、科学者卵として、やはり嬉しいものであった。実際、エネルギーは言うに及ばず、お金も流行も社会の仕組みすらも時を経て循環するこの世の中にあって、科学と芸術を置いて他に、真に人類の前進に寄与できるものがあるだろうか。と、上で少しネガティブなことを書いてしまったのを埋め合わせるべく、逆に多くの人の反感を買ってしまいそうなことを多少無理やり書いてしまった。とりあえず今回はここまでとしたい。

みんなトムかメアリーに
- 2008.01.20 Sunday
- Science
- 12:36
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- by bass

会ったことの無いアメリカ人にビジネスメールを送る必要が生じた。こういう時に困るのが、敬称である。男なのか女なのか、名前だけからでは、区別が付かないことが少なくないからだ。実際、私自身も、いつだったか国際会議の参加申し込みをメールで行ったところ、返信の敬称にMissを付けられたことがある。私の名前のどこがそんなに独身女性的なのか、あるいは単に送った人の希望的観測なのか、わざわざMr.を付けて返信したのに尚もMissで返ってくるから、これはもう女装しなきゃ駄目だろうかと悩み詰めた。なので私も、相手に変な気を遣わせないよう、web辞書で調べるのだが、大方は分かれども、いつも確実とはいかない。Mrs.とMissを区別するのはおかしいということでMs.が使われるようになって久しいが、いっそのこと、Mr.とMs.を区別するのも何なのでM.にまとめたらよかろう、と誰かが言い出すのを待つしかない。
というわけで、何だか自棄気味であるし、このまま終わるのも申し訳ないので、前回の補足をしてお茶を濁したい。子供の頃、「ヴィーチャと学校ともだち」という本を読んだ。子供心に、タイトルの訳語のこなれなさにびっくりした覚えがあるが、今も思いは変わらない。それは良いのだが、私の記憶が正しければ、その中に、主人公らが、学園祭か何かの見世物に、数字を理解できる犬、という出し物を企てる下りが出てきた。しかし実際には、犬は数字を理解したのではなくて、裏から手で合図するのに合わせて、その回数だけ首を振っただけだった、という落ちだったのだが(今から読もうと思った方、ごめんなさい)、現実の話としては、動物も、ある程度、数字−すなわち数と図形ないしシンボルの対応付け−を身につけることができるらしい。犬で調べた人が居るかは知らないが、少なくともサル、さらにはハトも、訓練の結果、数字をある程度理解出来るようになったという報告がある。そこで、気になるのは、前回述べた、数を見たときに選択的に応答する神経細胞(数ニューロン)の存在である。この場合の「数」というのは、スクリーンに表示される黒丸の個数のことであった。数字を理解できるようになった動物の脳には、数字に選択的な数字ニューロンも現れるだろうか?だとしたら、それと数ニューロンは、いかなる関係にあるのか?
その答えが、つい先々月明らかとなった。数ニューロンは、前頭葉のDLPFC(額〜こめかみの奥)と頭頂葉のIPS(頂上の少し後ろ)の2箇所にあることが分かっていたのだが、数字を覚える訓練(アラビア数字−サルにとっては初めはただの図形−と黒丸の個数とを対応付ける訓練)をしたところ、この2箇所のいずれもで、数字ニューロンが出現したという。ただ単に特定の数字に対して応答するだけだと、それが数を表すと分かっているのか単なる図形だと思っているのか判別できないところであるが、それらのニューロンの数字への選択性はウェーバー則に沿うものだった(つまり3に最も強く反応するニューロンは、2よりは4に強く反応する、というように大小で非対称だった)ために真の数字ニューロンだと判定されたのだ。2箇所の領域には、違いもあって、頭頂葉IPSの方では、数字ニューロンは数ニューロンとは基本的には別の集団で、どちらにも反応する細胞もあるにはあるが「黒丸は2個が一番だけど、数字は4」というような一貫性の無い細胞が多いのに対し、前頭葉の方では、どちらにも反応する細胞がかなり沢山あり、かつ「黒丸にせよ数字にせよ3が一番」という一貫した細胞が多いという。つまり、サルが数字を覚えたということの実体は、その前頭葉に、アラビア数字、あるいは(それと同じ個数の)黒丸、どちらを見せられても同じように応答する細胞が現れたことだという主張である。
実験はここまでであるが、彼らは考察を続ける。実は、人においては、黒丸の個数と、数字のいずれもが、頭頂葉IPSで処理されている、すなわちIPSに「notationに拠らない数の処理系」が存在する、ということが、心理学やイメージングの結果(黒丸を見せても数を見せてもIPSが同じように活動)から主張されてきたのだ。それがサルでは、数字はIPSでは無くて前頭葉だということになると、人とサルは違うということなのか。そうでは無いだろう、と彼らは述べ、最近、人でも未就学児の場合には、数字を見せた場合に前頭葉が活動するという知見が見つかったことを挙げている。彼らのサルは数字を学んで僅か数ヶ月、すなわち未就学児の状況に近いと述べた上で、数とシンボルの対応付けは、まず前頭葉で成された上で、人では(もしかしたらサルでも)それが徐々に頭頂葉IPSの方に何らかの形で移されるのではないか、そしてそれが、人は誰しも、数字を覚えたてで『頑張って』処理する段階から、半ば無意識に『自動的に』処理する段階へ以降していくということの実体なのではなかろうか、と結んでいる。
というわけで、何だか妙に長くなってしまった。樹状突起以外で、ここ最近読んだ論文の中で出色の鮮やかさだったので、つい紹介してしまった。ここまで読んでくださっている方が居たら感激であるが、もしも、よろしければ、こちらの原文を是非!(余談であるが、この雑誌−といってもオンライン版のみなのだが−は、Public Libraryという名の通り、科学の成果を研究者以外も含め全ての人が自由に−無料で−読めるようにすべきだ、という主張の元に数年前に発刊されたものなのである)。これはサルについての実験であったが、我々人は、黒丸の個数と数字、だけでなく、3、III、三、参、three、trois、tre・・、と実に様々なnotationを、みな同じ数だとして処理できる。その脳機構がどうなっているか、というのは最近非常に注目を集めていてイメージングの研究が進んでいるが、それはまたの機会にしたい。
続・数学する脳
- 2008.01.16 Wednesday
- Science
- 18:04
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- by bass

・(続く)と書いておきながら、気付けば1年と5ヶ月。少年老いても煙草は吸うべからず。
・数には、数量(個数や人数などの整数、および長さや速さなどの連続量)と、順序(何番目の何々)という2つの属性がある(さらに背番号のようにただの固有名詞と同じようにも使える)。
・数を扱う能力は、生存に役立つ(敵の群が味方より多かったら逃げる、巣に戻ったら白鳥の卵が混ざっていないか確かめる、誰がボスで誰が二番手でというのを把握しておかないとサル山で生きてはいけない、などなど)。
・ゆえに、数を扱う能力は進化の過程の、それなりに古くに獲得され、ヒトに特有なものではない。
・例えば2本のりんごの木を見比べて、どちらが沢山実がなっているかを判別しろ、などと言われた場合、実際の個数の差、ないし比が大きいほど、正解率が高くなる、あるいは応答時間が短くなる。のみならず、高くなり方・短くなり方は概ねウェーバーの法則に従う、つまり対数に比例する。そしてそれは、ヒトでも動物でも概ね同じ。
・サルの脳には、特定の数を見た時、ないし短期記憶にとどめている時に、最も活動的になる「数love」神経細胞がある。そうしたニューロンは、頭頂葉IPS(真上より少し後ろ)と、前頭前野背側部(こめかみの奥あたりかな)で見られるが、前者が先に活動し始めるので、この順に情報が送られるのかもしれない。
・かつては、好みは5以下、というニューロンしか見つかっていなかった。というより、そもそも5以下の数しか(サルに)見せていなかったのだが、世の中にはもっと大きな数もあるよーと1〜30の数を見せてやったら、どの数にも、好いてくれるニューロンが現れた。よかった。
・一番好きな数以外の数に対する反応は、好みから遠ざかるほど弱くなる。かつ、弱くなり方は大小に対称ではなく、対数をとると対称になる、つまりウェーバー的である。このことから、先述の如く行動がウェーバー則に従うことを説明できるかもしれない。
・ヒトも、数を扱う際には、サルで数好き細胞が見つかった2箇所に似た場所が良く活動する。電極は用いることができないので細胞一つ一つのことは分からないけれど、fMRI adaptationという方法で調べたところでは、サルと同様のウェーバー的好き嫌いを持つニューロンたちが居そうなことが示唆された。
(続く)
なお以上は概ね、これの2)-09に基いております。
新年
- 2008.01.05 Saturday
- -
- 16:37
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- by bass
紅白の最後、皆で「世界に一つだけの花」を合唱する場面を見た。これはいい曲だと思う。作曲の経緯や、歌詞そのものにも、批判もあると聞いたことがあるが、批判があるというのはすなわち、名曲の証拠であろう。駄作なら忘れられて終わりである。名曲ならば名曲であるほど、洗脳や何かに用い易いのはやむを得まい。それを心のどこかに留めておけば、あとは素直に曲を楽しまなければ損だと思う。音楽は作られた瞬間から、皆のものであると思う。そもそも作曲、というけれど、実際には、定理や法則が発明されるのでなく発見されるのと同じような意味で、音楽も作られるのではなく発見されるのではないかと思う。そう考えると、この曲で歌われるのは人は誰しも違うということであるが、この曲の良さは誰もが理解できるというのも、そしてまたしかし、その良い曲を発見できたのは槇原敬之だけだったということも、趣き深いことである。
こんなことを思う内に三が日も過ぎた。何とはなしに見てしまうことの多い箱根駅伝も、今年は見なかった。ここへきて、ひっそりとショックな事象もあるが、元より私には望むべくもないことではなかろうか。ともかく来週は頭からミーティングなので準備を進めねばならない。文献調査などはしばらく休止せねばなるまいが、今年は、というか今年も、知識の入力と出力いずれの面でも充実するよう頑張っていかねばと思う。
というわけで、皆さま、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。今年は、仕事の上でも、時々出張があったり、急な予定が挟まったりしそうなこともあって、落ち着いて音楽活動をするというわけにはいかず残念かつ申し訳なくもあるのですが、仲良くして頂けたら幸いです。この先は、2月終わり〜3月初めにユタ州に出張の予定です。状況が許せば、その前ないし後に少しイギリスで残り&続きの仕事をしなければ&してきたいとも思っているのですが、こちらは未定です。
良いお年を
- 2007.12.31 Monday
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- 14:31
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- by bass
さて、改めて今日で今年も最後。以前は、振り返ってみると短かった、という印象を持つことが多かったように記憶しているのだが、ここ2、3年はそうでも無くなり、今年は中でも短かったという思いは湧いてこない。人の脳がどうやって時間の経過を感じるかというのもホットな研究分野の一つであるが、私自身はほとんど全くフォローしないため、ここに書くことは出来ない。こうして二言目には何でも脳に結びつけるのは、このブログのみならず、最近色々な所で流行っているようでもあるが、改めて言うまでも無く、そう簡単に脳の働きが分かるはずは無い。しかし、脳の存在を意識することが、自分自身や物事についての考え方全般に、ある程度の影響を与えることは事実であろうと思う。たとえば、私でいうなら、物事いつでも理詰めで考えれば良い訳では無い、時として−というよりしばしば直感は理屈を上回る、というようなことを経験則としてだけではなく、極めて当然のことだと真に思えるようになったのは、割と最近のことのように思う。あるいは、病は気から、とか、気の持ちよう、といったような昔からの言葉が、単に物は言いよう、という所には留まらず、科学的事実を簡単に言い表した言葉とも考えられるようになってきたのも、脳科学の発展の成果と言って良いように思う。そして、そうやって自らの脳を意識することのできる生き物が人間しか居ないとしたら(確証はないが)、願えばそれを突き詰めることのできる我々はやはりある意味恵まれた生き物であると言って良いのかもしれない。
ということで、いつにも増して個人的な述懐となってしまった。このところ音楽からは、歌う方は元より、聴く方も遠ざかってしまっているのだが、思い出したので一つだけ。最近−といっても3ヶ月ほど前イギリスに居た頃だが−ラフマニノフのSymphonic Danceという曲を初めて聴いた。ポリーニの弾くベートーヴェンの協奏曲第4番を目当てにコンサートに行ったのだが、それを差し置いて(?)メインに据えられたこの曲は一体何者なのかと思って、予習すべくCDを買ったら、これが思いがけなく素晴らしかった。もっともこの曲、大半は、生涯もう二度と聴けなくても悔いは無いだろうなという感じの訳の分からない曲想が延々続くのだが、局所的に大変に美しいところが現れる。こういうのが挟まるのなら、それは確かに、他のところは多少意味不明の方が良いに違いない。雰囲気は、シベリウスの交響曲第2番の第4楽章に少し似ている気がする。ともあれ、世の中に自分の知らない素晴らしい旋律がまだまだあるというのは、当たり前のことなのかもしれないが、それを改めて確認できると嬉しい。正月に聴くのに向いているかどうかは分からないが、お薦めである。お薦めといえば、最近、我が研究所からブルーバックスの本(上・下)が出た。私も数日前に知ってぱらぱら読んでしかいないが、特に下巻の最終章などがお薦めである。これも正月の読書に向くかは分からないけれど、もしよろしければ、ぜひ!
というわけで、今年一年、本当におつかれさまでした。このようなブログを読んで下さった方、そして色々とお世話になった方、また励まして下さった方、本当にどうもありがとうございました。来年もまたどうぞよろしくお願い申し上げます。皆さまにとって来年が良い年となることを祈りつつ。
Christmas gift
- 2007.12.25 Tuesday
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- 01:16
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- by bass
さて、受理されたことがびっくりな訳ではない、と書いたが、受理されて当然だったなどと言いたい訳では決してない。この論文に関しては、少し前にpotentially acceptableという通知が届き、それと同時に課せられたリクエストもその後ほぼクリアできたため、おそらくは大丈夫なのではないかという気持ちに達していたのであった。そのため、喜びの方もかなり織り込み済みとなってしまっていたのだが、クリスマス休暇中に届くという意外性のおかげで、少し余分に嬉しかったという次第である。このあたりを、中脳のドーパミン細胞に関連付けて書こうかとも思ったのだが、クリスマスにそんなことを書くのも無粋な気がするのでまたにしたい。既に十分、無粋だという指摘は甘んじて受けたい。
良いこともそうだが、悪いことも、人はそれが予期できれば、織り込もうと考える。人は、と書いたが、私自身は、特にそうした傾向が多いかもしれない。別に中脳を意識してではなく、そんなことを知る以前から、自然とそうしてきたように思う。たとえば、今は昔であるが、大学入試の結果も、朝から自ら電車を乗り継いで発表を見に行ったりはせず、後期試験のための本を道連れに逆方向の電車に乗り込んで図書館に出掛け、昼食を食べるついでに公衆電話で(そういう時代だった)通っていた塾の合否遠隔通知サービスの係の人に問い合わせて知った程であった。それなら、もし駄目と分かっても、「ありがとうございました」と言って受話器を置いて、すました顔で後期の勉強に戻るのみだと思ったのである。
しかし、考えてみると、というより考えてみなくてもわかるべきことかもしれないと思うが、織り込める事ばかりが起こるわけではない。良い方向では、たとえば人は、宝くじに、あれだけ熱中する。人は、などと書くと、まるで私は別みたいであるが、私とて自分で買ったことは未だ無いが、買う心理は理解できる(何だか偉そうな言い回しですみません)。もっとも宝くじは買わないのに突然当たるということは無いから例としても少し変だが、ともかく良いことなら期待していなければいなかっただけ嬉しいであろう。しかし、その一方で、良くないことも突然起こりうる。私自身は、これまでも今も、順風満帆というわけでは決して無いし対極に近い部分すらあるが、それらは、自業自得か、そうでなくても、ともかく青天の霹靂という形で現れたわけではなかった。しかし、そうしたことがもし起きていたら、あるいは起きたとしたら、上に書いた織り込むなどというようなことは通用しないから、このままでは到底耐えられるように思えない。しかしそうした場合に、それは性格として仕方ないなどということはできないだろうから、私などは本当にその点やはり甘すぎることを自覚して精進しなければならないのだと思う。
***
というわけで、書き出しと少し違った方向に進んできてしまった。こうしたことは、書くなら普通、クリスマスではなくて、新年の計として1月2日頃書くものだと言われたら言い返せない。ともあれ、いつもながら、長くなりつつあるので、そろそろ締めくくらなければ。論文の話に戻ると、早速ケンブリッジのR博士に−これは博士の所で行った研究なのだ−、通ってくれて嬉しいです、とメールを送ると、Yes - it is a great relief!と返答を下さった。なるほど、さすがである。次いで共著者で、今はハーバードの院で超伝導(だったかな?)を研究しているはずのRKに、「M博士からの知らせ、気付いた?(M博士というのは論文のSenior Editorの一人で彼が受理通知を送ってくれたのだ)サンタクロースはいるみたいです」と送ると、「ええ、Dr. M赤サンタクロースからの贈り物、たった今気付いた所!」という返答が。とりあえず、意図が伝わってよかった。英語に自信はないし文化も違うかもしれないし、まだサンタを信じているのかと素で返されたら困るところであった。が、よく見ると、Dr. M赤サンタクロース? サンタとは書いたが、赤いとも太いとも書いて無いのに何故に赤? それも何故そこだけローマ字??、と思ってspace alcを引いてみると、aka = as known asとあって納得。そんな洒落た言い回しは、私には思い浮かばなかった。というわけで、タイトルにChristmas giftと付けておきながら、私が一方的にgiftをもらったという話だけで心苦しいのだが、このようなブログを読んで下さっている方に、本当に幸せが訪れますことを、せめて心から祈りつつ。Merry Christmas!!
線と点
- 2007.12.13 Thursday
- Science
- 12:53
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- by bass

生物などというものは文字通り腐るほどいるのだから、調べようと思えばいくらでも調べることが出てくる。そのほとんどは白黒付こうが付くまいが、もう全くどうでも良いことなのに、大抵の研究者は、そうした類の事に捕らわれたまま一生を終える。生涯を無駄にしないためには、本当に重要なことは何かというのをとことん見極めてから研究を始めなければならない、というような趣旨のことを、さる生物学の第一人者が述べられている。それを読んだ時には、非常に感銘を受けた。偉い人の言葉などあまり覚えない不届き者の私でも、今も時として思い出すほど印象に残っているのであるが、実際には色々と考えるべきことは多いように思う。
研究のスタンス、というか研究者のスタンスとして、極端に言えば2つの方向性があるように思う。一つは目的志向、今ひとつは過程重視というものだ。目的志向というのは、重要性や意義が万人にとって明らかであるような研究目標を策定し、すなわち俗な言い方をすれば、結果が出ればNatureかScienceに載ることは間違い無しという研究計画を立て、その達成をほぼ唯一の指針として、困難を乗り越えていくというスタンスである。一方、過程重視というのは、研究目標の重要性は、分かる人には分かるけれど(でないとまずかろう)万人に明らかということは無く、従ってたとえ期待通り結果が出ても、NatureやScienceはエディター審査の段階*1で通らないだろうから、基本的には、より専門に特化したジャーナルでなるべく良い物に載せることを目指す。自らの知的好奇心の充足も(完全な自己満足に陥らない範囲で)指針の一つと考えて、不得手を克服することよりむしろ得意なことに一層磨きをかけるというスタンスである。
こういう職場に居るからといって、人間の行動を機械的に解釈するのが好きな訳では決して無いが、人は皆、将来に渡って得られる利得(reward)‐物質的・精神的な‐の期待値を最大化しようとしている、という言い方にも理が無くもなかろう。すると、目的志向なスタンスは、この利得の見込みというのが点的であるものとして特徴付けられよう。たとえば数年先に、研究目標が達成された暁に、かなりの大きさの利得‐意義ある研究成果を挙げたこと自体の他にも、論文がNatureに載る喜びとか、その結果として例えば良いポストを得るなどというのも含まれる‐が得られることが見込まれる、すなわち期待値は、(目標が達成される確率を仮に0.5とすると)0.5×δ関数の積分という感じだ。それに対して、過程重視なスタンスでは、利得の見込みは線的、期待値は連続関数の積分という訳である。
少しだけ脱線すると、これには、研究者自身が自らのスタンスをどうするか、ということの他に、というより、おそらくそれ以上に、そもそも分野による性質の違いというのが相当あるのは確かであろう。一つの典型は、分子生物学である。NatureやScienceはあらゆる分野の研究を載せる雑誌ということになっているが、実際にページを捲ると、分子生物学の占める割合がかなり高い。それも、ここ10年位あまりにも分子生物学だらけになってきたので(というのは推測で本当の理由は知らないが)姉妹紙を次から次に作ったのに尚、である。それはやはり、つい先日の京大の山中博士の万能細胞の研究の例もそうだが、意義を本当に万人が直接理解できるテーマが、豊富に存在する分野であることを反映しているのであろう。一方で、逆の典型は、たとえば(自然科学では無いが)純粋数学などだろうか。フェルマーの定理ともなると、知名度はなかなかであるが、冷静に考えると、その意義が万人に明らかな訳では決して無い。もちろん意義が無いのが明らかというのでは決して無く、現時点では実世界的・直接的意義を持ちうるか否かが不明ということである*2(意義の定義にもよるだろうけれど)。では、理論神経科学は、どうか、という話を書こうと思ったが、長くなるので、また別の機会にしたい。
さて、元に戻ると、上に述べたのは、しかし極論である。私自身、修士課程まで居た研究室は、かなり前者‐目的志向型‐の典型と言えそうな所であったが、そこの人達、皆が皆、晴れの日を夢見て日々ひたすら苦難を乗り越える、という感じだった訳では無い。というよりむしろ、成果を挙げている人というのは、苦労が無いという筈は無いのだろうけれど、そうした中にあっても、やはり楽しんでいる人、すなわち、掲げた目標を達成するための日々の過程が、自らの適性や知的好奇心とマッチしている人であったように思う。もちろん、適性や知的好奇心というのも固定不変のものという訳でも無いだろうし、自分で気付かなかった適性を発見などということもあり得るだろう。しかし、やり続ければ誰もがいずれは好ましきマッチングの境地に達することができるというのも綺麗事に過ぎるであろう。そこで、見極めが大切であるように思う(自らの過去を正当化しているのでは無いかという指摘は甘んじて受けます^^;)。利得の話で言えば、やはり、完全に点のみというのは厳しくて(真に高さ無限のδ関数で無い限り積分すると無くなってしまうし)、線も必要なのではなかろうか、と思う次第である。
とはいえ、私のように始めたばかりの者に、どうしたスタンスが良いかというものは考えてもやはり分かるものでは無い。その上で、では、これまで歴史に残る貢献をした科学者というものはどういうスタンスだったのか、ということを知るのは意義あることに思える。折りしも今夜は、ロシアから久々に帰国した科学史家の友人に会うことになっているので、レクチャーを聞こうかと思う。が、白菜の料理法についてレクチャーを受けることになりそうな気もするのだが。
*1 科学雑誌は一般に、peer reviewといって、近い分野の他の研究者2、3人が匿名で内容を審査して掲載の可否を決めるものなのですが、NatureやScienceを初めとする一部のハイステイタスな雑誌は、そうしたreviewに回す前に、専任の編集者‐多くは博士号を持ち研究経験を積み結構な実績を挙げた上に転身した人‐から成る編集部でreviewに回すかどうかの会議にかけて、投稿された内かなりの割合はその段階で門前払いとなるのです。
*2 ただ、細かいことを言えば、おそらくNatureやScienceは、万人に意義が明らかな研究のみならず、直接的意義は不明なれど万人の知的好奇心をくすぐるような研究も載せようという方針のようで、そうした研究は逆に、率は低くとも過程重視なスタンスから生まれるのでは無いかという気もするのですが。

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